今こそ本田宗一郎〜本田技研工業の創業者〜

日本が戦後復興を果たし、GDPが世界第2位となり、ジャパンアズNO.1と呼ばれた時代、そしてその後の失われた30年を経た現在。ホンダを世界一のバイクメーカーにした創業者、本田宗一郎についてあらためて語りたいと思います。

本田宗一郎ものづくり伝承館HPより 本田宗一郎ものづくり伝承館 (honda-densyokan.com)
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今の日本社会に必要なもの

先日、NHKアカデミアという番組を観ていました。「各界のトップランナーたちが“今こそ、共有したい”を語り尽くす」がコンセプトの番組です。

毎回多彩なゲストがオンライン参加の視聴者からの質問にも答えるという番組で私のお気に入りの一つです。ゲストは歴史家の磯田道史さんでした。多くの著書もあり皆さんもご存知だと思います。現在は、京都にある国際日本文化研究センターに勤務されていて、日本の研究をする外国人の方のサポートや、普通はあまり扱われないような日本文化の研究に取り組んでらっしゃるようです。

そんな番組の中で磯田さんが「今の日本社会に必要なもの」という説明のところで、「本田宗一郎、本田技研工業の創業者」と紹介されていました。歴史家から見たときに、何が今の日本に必要なのか?本田宗一郎の何が必要なのか?なぜそれが必要なのか?非常に興味深く拝聴しました。

今の日本社会に必要なもの(NHKのHPより)

磯田さんは、ホンダ創業の地、浜松で4年間暮らしたそうです。そこで本田宗一郎さんに会ったことがある人、本田宗一郎さんの家族に会ったことがある人を訪ねて歩いたとのこと。特に御用聞きする酒屋さんを狙ったそうです。
そのなかで、一番驚かれたのはものづくりへの情熱だったそうです。
何をやるのにも熱気が重要だと。「やりたい」「楽しい」という感情的な面があまり軽視されては、何事もできない。知識の「知」と意欲意志の「意」だけではだめだと。燃料の「情」がないと、やりたいという熱気がないと。人間や動物というのは全て熱気でもって物事を成していくので。「知」「情」「意」、全部がないといけないんですね。と力説されていました。本田宗一郎さんをそのように感じられたんでしょうね。また磯田さんご自身にも大いに「情」を感じました。

かくいう私も大学時代にホンダのファンになり、40年以上ホンダでバイクの開発に携わってきました。個人的には宗一郎さんと面識もありませんし、直接教えを受けたこともありません。
でも、今あらためて本田宗一郎さんを知ることによって新たに気づく「今の日本社会に必要なもの」もあるのではないでしょうか。
私の好きな造語に「温故創新」故きを温ねて新しきを創る、という言葉があります。先行き不透明な時代、「答えを見つける時代」から「答えはつくっていく時代」に変わってきたように感じます。まずはそんな故きを温ねて本田宗一郎さんに触れることができる場所をご紹介いたします。

本田宗一郎ものづくり伝承館

静岡県浜松市天竜区出身の本田宗一郎さんの実績を顕彰し、その人となりやものづくりの精神を次世代に伝える活動をされています。

最初にある「私の手が語る」のコーナーでは、「ハンマーをふるうのは右手、左手は陰になっていつも犠牲になる・・・」と宗一郎さんの左手の傷、その傷にまつわるエピソードが紹介されています。
「私の手が語る」は講談社から同名の本が出版されています。その序文の中に次のような下りがあります。

「私の手は私がやってきたことのすべてを知っており、また語ってもくれる。私が話すことは、私の手が語ることなのだ。そう思うとき、私はしみじみ、体験というもののありがたさ、強さを感じる。」

ホンダには「三現主義」という言葉があります。現場、現物、現実の三現です。
現場に行き、現物に触れ、現実を知り、判断し、動くということです。体験とはまさに三現主義の実践にほかなりません。またここには、そのあゆみ、様々な名言の紹介や実車展示もあり、本田宗一郎さんに迫れる展示がされています。様々な企画展も開催されていますので、行くたびに新たな発見に出会うことができます。

本田宗一郎ものづくり伝承館HP 本田宗一郎ものづくり伝承館 (honda-densyokan.com)
「私の手が語る」本田宗一郎著 講談社より

ホンダコレクションホール

栃木県にあるモビリティーリゾートモテギ内にあるコレクションホールです。多くの実車が直接見られるのが最大の魅力です。

私は毎年秋に開催される世界グランプリを見に行くので、いつもその時に見学しています。多くのバイクや説明パネルを見ているとエネルギーを注入してもらっている気になります。
数ある説明パネルの中で一番のお気に入りが写真のパネルです。
「技術力で世界一になるんだ。」テストコースの脇でレーサーの音(たぶんエンジン音)から何かを聞き分けようとしていたんでしょうね。宗一郎さんの気迫が感じられます。


「今の日本社会に必要なもの」、そのひとつは「道を切り開く技術力」ではないでしょうか?戦後多くのメーカーが技術で日本経済を牽引してきたのは記憶に新しいところですね。良い技術とは真似される技術でもあります。スーパーカブもそうでしたね。真似されるというのは技術者が認めてくれた証でもあります。技術者冥利に尽きるものなんですよ。

モビリティーリゾートモテギHPより Honda Collection Hall | モビリティリゾートもてぎ (mr-motegi.jp)
「技術で世界一になるんだ」のパネル(著者撮影)

富士霊園

宗一郎さんのお墓は静岡県にある富士霊園の中にあります。富士山の見えるところを希望されたようです。
何度かお墓参りをしましたが、なにせ広い霊園です。行くたびに霊園内の地図をもらって場所を聞かないと辿りつけません。いつも綺麗なお花が添えられているのが印象的です。いまだに多くの人に愛されていることが分かります。宗一郎さんらしくミニカーがお供えされていることもありました。

ここは富士スピードウエイからも近くレーシングマシンの音も聞こえてくるそうです。今もホンダサウンドを楽しんでいらっしゃることと思います。

富士霊園HPより 公益財団法人 冨士霊園 | 公式ホームページ (fujireien.or.jp)
宗一郎さんのお墓(著者撮影)

ホンダ八重洲ビル

現在、本社は東京青山にありますが、過去八重洲にあったことがあります。その八重洲ビルが再開発で取り壊されることになりました。

当時、宗一郎さんの執務室がその当時まま保存されていました。執務室の中は机、応接セットやお酒まで当時のままで残されていました。
また世界各地の事業所で開催された記念行事の盾も飾ってありました。個人的に想い出深いものも見つけました。
一つはアメリカのオハイオ州にあるメアリスビルの工場のもの。ここは過去バイクの完成車工場でもありました。
もうひとつはアンナエンジン工場のものでした。私もここで生産するモデルの開発に携わっていたときに何度も出張しました。
アメリカでは当時、出張者は空港でレンタカーを借りて自分で運転するのが当たり前でしたが、一度道に迷ったときに不審な車と疑われサイレンを鳴らせたパトカーに止められた時は冷や汗ものでした。でも道に迷ったと説明すると行先のホテルまでなんと先導してくれました、笑。見かけによらずやさしいですね。

八重洲ビルの執務室(著者撮影)
メアリスビル工場の記念盾(筆者撮影)
アンナエンジン工場の記念盾(著者撮影)

世界一への道

さて本田宗一郎さんとはどのような方だったんでしょうか?

明治39年(1906年)11月17日、浜松市の北部の天竜区山東(旧磐田郡光明村)に生まれました。幼少期から好奇心のかたまりのような少年だったそうです。
光明村に初めて自動車がやってくると車の後ろを追いかけ走り回り、浜松市で曲芸飛行ショーがあると聞きつけると20キロ離れた会場まで父親の大きな自転車を三角乗りで駆け付けたそうです。子供の頃から、「情」の方だったんですね。

その後、どうやってホンダを世界一のバイクメーカーにしていったのか?
「成功は、99%の失敗に支えられた1%だ!」という名言があります。逆に考えると99回失敗しないと1回成功できないということですから非常に重い言葉ですね。

失敗とはチャレンジしたから失敗したのであって失敗とミスとは違います。人生のなかにはチャレンジせざる負えないときもありますよね。次回はそんな名言を感じたエピソードをご紹介したいと思います。

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この記事を書いた人

1960年生、山口県宇部市出身。元メーカーの開発エンジニア。 現在は、カーボンニュートラル燃料の普及を研究中。

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