次のバイクを買うために、ヤマハSR400を下取りに出した。
2019年にファイナルの一つ前の型のSRを新車で買い、売ったのは5年目の2024年。私が54歳の年である。
こんな年齢だし、しかもSRは好調だったので、これが最後のバイクになるだろうと思っていた。最後のバイクにしたいとも思っていた。新車で買って自分でクラシックバイクにするんだ、と。
それくらい気に入っていたが、しかし手離した。
なぜSR愛が薄れたのだろうか。
資金面からの考察
GT50、GPz400R、TDR250、DT50、NSR250R、そしてSRと乗り継いできた。全部手離したが、全部とっておけばよかったと思う。このように並べるとキックスターターが多いな。
売ると決断するまで、手離す気持ちはまったくなかった。つまり、「売ろうかな、売りたいな、いつ売ろうかな」と長い間思い続けて売ったわけではなく、むしろ衝動的に決断した。
「新しいバイクが欲しいな」と思ってから「よしSRを下取りに出そう」と決めるまで5分ほど。
なぜSRを売ってしまったのか、という課題について、まずは資金面から考察してみたい。
無理すればSRを持ち続けることはできた
もちろんジェフ・ベゾス氏や孫正義氏くらいカネを持っていたらSRを売らずに、次のバイクを購入しただろう。しかしいくら「たられば」の話とはいえ、カネ持ち設定は現実味がなさすぎて意味がない。
そこで私の年収レベルで考えてみる。
私の年収は大したことがないから、バイクを2台持つことは経済的に少し厳しい。それでも私のバイク仲間には、私と似た年収(と思われる年収)でありながら複数台持っている人もいる。
しかも私のマンションのバイク置き場の料金は月額1,000円と格安なので、バイクをもう一台増やしても維持費はそれほどかからない。
だから少し無理をすれば、SRと次のバイクの2台持ちは可能であった。つまり今回のSR売却において、資金の事情はあまりない。
愛情を集中するため
カネがないからSRを売ったわけでないなら、愛の事情だろうか。
私は以前、「バイクを複数台持つことを考える~1台派からの提言」という記事のなかで、バイクを1台だけ持つメリットには、1)愛情を集中できる、2)最高の1台を真剣に検討できる、の2点があると紹介した。
参考
この記事を書いたのはSR売却の4カ月前の2023年9月であり、この「1台」とはもちろんSRのことをいっていた。つまり、SRに私のすべての愛を集中させていたころである。
2台持ち、シミュレーションですら、疲れ果て
次に買うバイクの目の前に立ったとき、マンションのバイク置き場にこのバイクとSRがあるシーンを想像してみた。すると「抱えきれないな」と感じた。
2台分の保険と車検を手配して、洗車の回数が2倍になって、どちらかが故障したら「もう1台あるから売ってしまおうかな」と悩んで――といったシミュレーションをしていたら「うん1台でいい」と思えた。
それでSRを売る決断が固まった。
SRの不満点
SRに夢中になっていたころ、SRは100点だと思っていた。90点でも120点でもなく、100点。
100点のものに出会うことは案外難しい。良いものばかりを選んでいるとつい120点のものを手に入れてしまい、結局持て余してしまう。
だからといって妥協をすると90点のものを手に入れることになって、物足りなくなってしまう。
だから100点のものを入手できることは運命といってよい。SRとは運命的な出会いだったのだ。
ところが気がついたら点数が減っていたのである。
いかんともしがたい非力さ
SRは24馬力(ps)しかない。当初は、のんびり走ろうと思っていたのでそれで十分だった。SR乗りがよく言う「振動が心地よいから遅くても楽しい」乗り方を楽しんでいた。
しかし私はそれほど風流ではなかった。
むしろ「ふたり鷹」「バリバリ伝説」「湘南爆走族」「キリン」を愛読してきたので、バイクの不良性を好む傾向がある。
アクセルを全開にしてもモワーっとしか走らないSRの非力さは、次第に減点ポイントになっていった。
刺激のなさ
上野動物園にパンダをみにいって「のろまな動物だな」と思う人はいないだろう。パンダはノソノソ動くところが魅力なのだから。
したがって、SRオーナーが「刺激のないバイクだな」と思うのは間違っている。SRはのんびり走ることを楽しむバイクなのだから。
しかし、一人のライダーが、のんびり走りたいときと刺激のある走りの両方を求めることは珍しくない。
このときバイクを複数台持つことができると、のんびりバイクと刺激バイクを持つことができるが、1台持ちライダーにはそれができない。したがって、のんびりバイクか刺激バイクを選ぶしかない。
のんびりバイクを堪能したから、次はこれを売って刺激バイクを買うのである。
SRを売ることが間違っている理由
この物語のあらすじは、保有しているバイクを売って新しいバイクを買った、というだけ。それでもこの物語にドラマが生まれるのは、主役がSRだからである。
SRはドラマチックでロマンチックでエキゾチックなバイクだから、バイク物語の主役になることができる。そんなバイクそうはない。
SRで物語がつくれる理由がもう一つあり、それは価値の高さだ。SRは同じデザインのまま何十年も生産されてきた。時代を超える価値は貴い。しかもすでに生産が終わっているのでSRの価値は今後さらに高まるだけだ。
だから私がSRを売ったことは間違っている。だからこれは、過ちの物語なのである。
金属でつくられた貴重なバイクだから
SRの売却が間違いであると断言できるのは、これが金属でできているからだ。
金属ばかりでつくられたバイクはめっきり減ってしまった。バイクは鉄馬といわれることがあるが、最近のバイクはプラスチック馬である。
金属は成形の自由度が小さいので、金属だけでバイクをつくろうとするとどうしてもデザインが単調になってしまう。
一方プラスチックはいくらでも複雑な形をつくることができるので、デザイナーは遠慮なく複雑なラインを描くことができる。格好良いバイクが増えたのは、バイクがどんどんプラスチック化されていったからである。
それで今やプラスチック・バイクが主流になった。そのせいで愚直に鉄馬であり続けるSRが希少種になることができた。
小粋なバイクだから
SRは400ccしかない小さなバイクだ。排気量マウントという言葉があるくらい、バイク界では大きいほど威張ることができる。また、バイクには速さが重要な価値があるので、この点でも大排気量のほうが有利だ。
その一方で小粋という価値がある。コンパクトにまとめることで可愛らしくなり、扱いやすさや軽快さといったメリットも生まれる。
また、機械は小さくなるほど精密になり、つくるのに高度な技術が必要になる。精密や高度という単語には賢いイメージがある。
また小さいことは慎ましさを生む。慎ましいとは、遠慮深い、態度が控えめ、といった意味である。だからSR乗りに品が良い人が多いのだ。
SRの小粋さを評価する人は、大排気量のバイクを愚鈍に感じるのではないか。SRの小ささには意味があり、だから排気量マウンターたちもこのバイクには迂闊に手出しできないのである。
約束された後悔
後悔を引き起こす行動には、後悔するとは思っていなかった行動と、後悔することがわかっていた行動の2種類があるが、今回のSR売却は明らかに後者だ。
私は「後悔するだろうな」と思いながらSRを売り、売った瞬間から後悔が始まって、今、後悔の文章(本稿)を書いている。
私の資金力でもかろうじてSRを保有しながら新しいバイクを買うことはできた。だから今回の後悔は避けられた。後悔することがわかっていて実行することを愚の骨頂と呼ぶ。
愚かな行動の記録は物語になる。
まとめに代えて~「うん、良いバイクだよ」という人になるのだろう
私はSRを買う前から、SR乗りに「このバイクどうですか」と聞いていた。また、過去にSRを所有していた人に「どうでしたかSRは」と尋ねていた。
回答は100%の確率で「良いバイクだよ」だった。そしてその多くが「面白いバイクだよ」と言った。
私はこのたびSR乗りからSRを所有していた人になったわけだが、これから誰かにSRってどうでしたかと聞かれたら、「うん、良いバイクだよ」と言うだろう。そして「SRっておすすめですか」と尋ねられたら「気に入ったら買うべきだ」と教えてあげるつもりである。