ヨシムラを愛してやまない理由

この男女平等の時代にこんなことをいうと顰蹙(ひんしゅく)を買うと思うのだが、バイクは男の乗り物だと思う。

女性のバイク乗りも、ここが男の世界だからここで遊びたいのではないか、と思っているのだが、どうだろうか。

そこでこんなフレーズを口ずさんでみたい。

男ならヨシムラ

ヨシムラを日本一のバイク・パーツ・メーカーと呼んでも、異論は出てこないのではないだろうか。そして並列4気筒のバイクにヨシムラの集合管やマフラーを取りつけることは、ある種のライダーにとっては基本行動になっている。

ヨシムラの概要を紹介しながら、なぜ私がヨシムラを愛してやまないのか説明してみたい。

目次

ヨシムラとはなんだ

「ヨシムラとはなんだ」という質問の答えはいくつか考えられる。その複数の答えを組み合わせるとヨシムラの正体をつかむことができるだろう。

POP吉村の会社

最初の「ヨシムラとはなんだ」の答えは、POP吉村の会社、である。冒頭のイラストのおじさんがPOP吉村こと、株式会社ヨシムラジャパンの創業者、故吉村秀雄(1922~1995年)だ。

なお本稿のイラストは、POROporoporoさんに描いてもらったものだが、すべてRACERS Vol.72の写真をベースにしている。

吉村は福岡県出身。戦中は航空機関士として従軍し、終戦後に兄が福岡県内で経営する鉄工所の一角を借りてバイク店、ヨシムラモータースを始めた。

ヨシムラモータースの客は、当時米軍が接収していた板付基地(福岡市博多区)の米兵たちだ。バイク・レースをしていた米兵が、吉村のチューニングの腕を聞きつけて自分のバイクの改造を依頼したのである。若い米兵は吉村のことを「日本の父ちゃん」みたいなニュアンスでPOPと呼んでいた。

なお板付基地は今は、その大半が日本に返還されて福岡空港になっているが、そのなかの一部はまだ米軍の施設である。

吉村さんがPOP吉村になったのは1950年代のことだ。

ホンダがマン島TTレースで初優勝したのが1961年なので、1950年代はまだまだバイクといえば欧米という時代だ。それなのに、そのときすでに吉村は、バイクの目が肥えた米兵をうならせていたのである。

ヨシムラは、ゴッド・ハンドがつくった会社なのだ。

フェラーリのような会社

2つ目の「ヨシムラとはなんだ」の答えは、部品メーカーであり、レースを行う会社である。フェラーリはF1をやるために自家用車を製造販売している会社といわれることがあるが、株式会社ヨシムラジャパンも似たところがある。ヨシムラはマフラーやエンジン内部の部品をつくって販売して稼いだカネをレースにつぎ込んでいる。

なお4気筒エンジンから生えている4本のエキパイを1本にまとめる集合管を発明したのは吉村である。

日本最大のバイク・レース、鈴鹿8時間耐久ロードレース(以下、鈴鹿8耐)は2024年で45回を迎えたが、その記念すべき1回目が1978年に開催され、ヨシムラがチューンしたスズキGS1000が優勝した。

ホンダをビビらせて倒した会社

3つ目の「ヨシムラとはなんだ」の答えは、バイクの世界王者であるホンダをビビらせたうえに倒してしまった会社だ。これがどれだけすごいことなのかこれをみれば一目瞭然だろう。

2024年現在株式会社ヨシムラジャパン本田技研工業株式会社
設立1954年1948年
年間売上高非公開20.4兆円
資本金5,000万円860億円
従業員数80人19万人(連結)

この数字は2024年現在のものであるが、1960~1970年代でもヨシムラとホンダは中小企業と世界企業ほど違っていた。

それなのにヨシムラはホンダに完全勝利したことがある。

ホンダとの蜜月時代の始まり

数々の伝説を持つホンダは日本経済界のヒーローだが、ヨシムラとホンダの物語ではどうしてもヒールになってしまう。それはホンダが、バイク乗りたちの「おやじさん」である吉村を無碍(むげ)に扱ったからだ。

1964年に鈴鹿8耐の前身のレースである鈴鹿18時間耐久レースが開かれた。吉村は、ヨシムラ・チームが使ったCB72と、福岡ホンダ・チームが使ったCB77の両方のマシンをチューニングした。福岡ホンダは「ホンダ」とついているが地方チームであり、ホンダの本丸はホンダ研究所チームのCB77で、こちらはもちろんホンダだけでつくった。

■鈴鹿18時間耐久レース(1964年)のヨシムラとホンダ
・ヨシムラ・チーム:CB72、ホンダ製、ヨシムラ・チューン
・福岡ホンダ・チーム:CB77、ホンダ製、ヨシムラ・チューン
・ホンダ研究所チーム:CB77、ホンダ製、ホンダの自前チューン

レース序盤は、ヨシムラCB72が圧倒的な速さで独走状態だったが、開始2時間でトラブルを起こしてリタイア。代わってトップに躍り出たのはホンダ研究所CB77だった。ホンダの面目躍如と思いきや、こちらもリタイアしてしまい、結局、福岡ホンダCB77が優勝した。表彰台には吉村も招かれた。

このように2社の出会いは、始まりは良好だった。

本田宗一郎が登場

ホンダは鈴鹿18時間耐久レースの前からヨシムラに注目していたが、このレース結果によってヨシムラへの評価が決定的となる。ホンダの創業者、故本田宗一郎は社員に、ヨシムラのマシンをテストさせてもらうよう指示した。

吉村も、あの宗一郎からの頼みとあっては断るわけにはいかず、ヨシムラのマシンをホンダに預けることにした。テストをしたホンダの社員は言葉を失った。ホンダがつくったホンダ・マシンは27馬力しか出ないのに、ヨシムラがチューンしたホンダ・マシンは32馬力も出たのだ。

1969年、ホンダが世界のバイク史に残るあのバイクを出す。そうCB750FOURだ。ホンダはこのチューニング・パーツの製作をヨシムラに依頼する。また、アメリカのホンダの子会社も、レース用のバイクの製作をヨシムラに依頼した。

このホンダ・ヨシムラは世界のレース界で天下無双状態となった。

嫌がらせを経てHRCをつくるきっかけになったか

ただ両者の蜜月は長く続かなかった。ヨシムラが必要とするパーツが、ホンダから届きにくくなるトラブルが頻発するようになる。

これは、宗一郎がヨシムラを脅威に感じてパーツを供給するなと指示した、という説がある一方で、宗一郎がヨシムラをベタ褒めするので、それに嫉妬したホンダ社員がヨシムラに嫌がらせをした、という説もある。さらに、ホンダ社員嫉妬節は、宗一郎を悪者にしないためにつくりあげられた説とする説すらある。

したがって真実は藪の中(やぶのなか)なのだが、ヨシムラがホンダから嫌がらせ(?)を受けたことと、ホンダのレース部門がヨシムラ頼みから脱却したのは事実である。

ホンダのバイク・レースは今、HRC(ホンダ・レーシング・コーポレーション)が担っているが、この前身であるRSC(ホンダ・レーシング・サービス・センター)が1970年代初めに発足している。

ホンダが「ヨシムラに勝つには本格的にレース部門をつくるしかない」と考えてRSCをつくったようにみえるのは、私だけではないだろう。

■ヨシムラとホンダの蜜月期から破局までの年表
・1964年:ヨシムラ・チューンのホンダ車が鈴鹿18時間耐久レースで優勝し、ホンダがヨシムラの実力を認める
・1969年:ホンダがCB750FOURのチューニング・パーツをヨシムラに発注:蜜月時代
・同じころ:世界中のレースでホンダ・ヨシムラが活躍:蜜月時代
・同じころ:蜜月の裏で、ホンダがヨシムラにパーツを供給しない嫌がらせ?
・1970年代初め:ホンダがレース部門、RSC(HRCの前身)を立ち上げてヨシムラ頼みから脱却

ホンダ肝いりの鈴鹿8耐の第1回大会で優勝をかっさらう

少し混乱させるかもしれないが、1978年に始まった鈴鹿8耐は、1964年開催の鈴鹿18時間耐久レースの短縮版ではない。先ほど鈴鹿18時間耐久レースのことを「鈴鹿8耐の前身のレース」と紹介したが、実はこれも正確な表現ではない。

鈴鹿18時間耐久レースは単発的に開かれたものであるが、鈴鹿8耐は、鈴鹿サーキットの実質的なオーナーであるホンダが、鈴鹿サーキットを使って大規模バイク・イベントを開く目的で開催した。

したがって鈴鹿8耐は、日本初にして日本最大のバイク・イベントなのである。

その記念すべき第1回大会(1978年の鈴鹿8耐)で、こともあろうかヨシムラ・チームが優勝をかっさらってしまう。

ヨシムラの下馬評は「集合管を発明したらしいね」「昔、ホンダからチューニングの依頼を受けていたそうだね」「アメリカで活躍しているらしいけどね」といった程度で、完全にノーマークだった。

しかもヨシムラが使ったGS1000は、スズキが1978年3月に販売したばかりだった。つまりヨシムラは、春に出たばかりのバイクをチューンして夏の大レースで優勝してしまったのである。

なおヨシムラがスズキ車を使った経緯は「ヨシムラはスズキをブランド化した」の章で紹介する。

ホンダの第1回鈴鹿8耐の結果は散々だった。ホンダは、当時ヨーロッパの耐久レースで無敵を誇るRCB1000を2台出したが、1台は34位、もう1台はなんと43位のビリだった。43位のRCB1000は1周目の最終コーナーで転倒、リタイアしてしまった。1周もできなかったのである。

フォロー

ホンダの名誉のために言い添えておくと、1979年の鈴鹿8耐の第2回大会では、ホンダ車が表彰台(1~3位)だけでなく、4~8位もすべて獲っている。

レース・シーンでよく、ホンダを怒らせると恐い、といわれるが、このエピソードもその1つに数えられる。

ヨシムラはスズキをブランド化した

ヨシムラといえばスズキというイメージがあるが、元はホンダと組んでいたことは、上記で紹介したとおりである。ではヨシムラがホンダの次にスズキのバイクを選んだのかというとそうではなく、ヨシムラがアメリカのレース・シーンで名を売ったのはカワサキZ1を使ったレーサーだった。

ヨシムラがスズキと出会うのはそのあとであり、つまりヨシムラは「×2」状態だった。そして両者の出会いは、運命的というより、ビジネス・ライクな部分が大きいようである。

吉村と横内、ビジネス・ライクだが熱い友情

スズキは元々2ストのメーカーとして活躍していたが、1970年代に入ると排ガス問題や石油ショックが起きて、環境負荷が大きい2スト・バイクは将来性がないとみなされるようになった。そこでスズキも4スト・バイクの開発に乗り出し、1976年にGS750を発売した。

GS750はスズキ初の直列4気筒バイクだが、1969年発売のCB750FOURより7年もあと、1972年発売のZ1(900スーパー4)と比べても4年あとに出ていて、完全な後発組である。

ただし、ここがスズキのすごいところなのだが、後発組の意地をみせてGS750をCB750FOURより、Z1よりしっかりつくりこんできたのだ。そのことを吉村が見抜いた。

吉村は1976年にバイク雑誌に掲載されたGS750の透過図をみて、エンジンのつくりがしっかりしていることに感銘を受けることになる。そのとき吉村はアメリカにいて、スズキのアメリカ子会社にコンタクトを取った。

このときスズキ側で対応したのが、GS750の開発責任者だった故横内悦夫だ。

横内はスズキのレジェンドであり、スズキが世界GPで7連覇を達成したときの責任者で、世界GPモトクロスの責任者を務めたときもタイトルを獲得し、初代カタナ、RG250ガンマ、GSX-R(400)、GSX-R750、油冷エンジンなどの生みの親でもある。

したがって1976年の吉村と横内の会談は、バイク界の2人の巨人の出会いといってよい。

横内にはGS750を売らなければならないというビジネス上の目的があった。GS750がレースで勝てば、バイク乗りの注目を集めることができてよい宣伝になる。だから吉村の腕が必要だった。

一方の吉村は、レースで勝てるベース車が欲しかった。ホンダに裏切られたあとにZ1と出会ったが、カワサキから手厚いサポートが受けられていたわけではない模様。そこにGS750という名車を予感させるバイクが出て、さらにレジェンド横内とすぐに打ち合わせすることができた。

横内は吉村の第一印象について次のように語っている。

「絶対に勝ちたいという意欲がすごく伝わってきましたね。この人なら、ほかのワークスをやっつけられると感じたんですよ」

吉村は横内の第一印象について次のように語っている。

「横内さんは真面目な人で、本当にレースのことを知っている。この人なら信頼できると思いました」

ビジネス・ライクな関係は時に熱い友情を生むのである。

スズキには変なプライドがない

スズキの年間売上高は5.4兆円で、ホンダの20.4兆円よりは劣るが、それでもヨシムラとは比べものにならないくらい大きな企業である。したがって、スズキがレースに使うバイクのエンジンのチューニングを中小企業のヨシムラに依頼すれば、ホンダ同様、プライドが許さない事態が起きそうなものだ。

しかし実際は、吉村と横内の1976年の邂逅から現在(2024年)までの約50年間、両者の協力関係は揺らいでいない。

ヨシムラは自社のホームページの主要取引先の欄の筆頭にスズキ株式会社を置く。

スズキは2020年に次のようにヨシムラを称えている。

「2輪車による耐久ロードレースの最高峰である、国際モーターサイクリズム連盟(以下FIM)主催の2021 FIM 世界耐久選手権(以下EWC)に株式会社ヨシムラジャパン(以下ヨシムラ)共同で参戦する。

(ヨシムラとは)1976年にスズキ初の大型4ストローク車(GS750)のレース車両開発に協力して以来、現在に至るまでスズキと共に鈴鹿8時間耐久を中心にレース活動を続けている。

レース車両のチューニング、チームマネジメントに高い能力を持つヨシムラと共同で参戦することで、チーム・スズキを具現化するチームワークが勝敗に大きく影響するEWCの連覇を目指す」

スズキは企業理念に、中小企業型経営を掲げている。中小企業のように柔軟に変化に対応していく、という主旨である。そのためスズキには、自社にプラスになることを貪欲に取り入れる姿勢と、変なプライドを出さない性格の良さがあるのだ。

では、スズキにとって、ヨシムラと付き合うことのプラス要素とは何か。私はブランド化だと考えている。

私はヨシムラ伝説を中学生のころに知った

私はここまでの文章を、信頼できるWebサイトやバイク雑誌を参考にして書いてきたわけだが、しかしこの概要は1980年代には知っていた。それは私が中学生のときにバイク漫画「ふたり鷹」(新谷かおる作)を読んでいたからである。この漫画のなかに吉村が登場し、その歴史が披露されていた。

なお「バリバリ伝説」(しげの秀一作)にも吉村が出てくるが、少ししか登場しない。

私はヨシムラとスズキの関係をバイクの免許を取る前に知っていて、しかも「格好良い関係だな」と思っていた。さらに、それから40年が経過した今も、私はヨシムラとスズキの関係っていいな、と思っている。

これだけ長期にわたって語り継がれているストーリーは、ブランド化に貢献する。

「ヨシムラをつけたいからスズキを買う」人をつくる力

スズキはブランド化が下手なメーカーである。というより庶民の味方でありたいがために、ブランド化を拒否している側面もある。

4輪では安い軽自動車の安いバージョンをたくさん出しているし、2輪でも性能面ではホンダ、ヤマハ、カワサキと変わらないのに、いつもその3社より安く売っている。

しかしメーカーが完全にブランド化を拒否してしまうと儲からなくなってしまう。したがって、スズキがいくら庶民の味方であろうとしても、最低限のブランド化は必要だ。

ヨシムラはスズキのブランド化に一役買っている。

このように断言できる理由の一つが冒頭で紹介した、男ならヨシムラ、というイメージの確立である。ヨシムラのレースでの強さと伝統、そして吉村の不屈の精神。本稿では紹介しきれなかったが、吉村はアメリカでどん底に落ち、その後復活してみせた。バイクに男の乗り物というイメージがある以上、マッチョさはブランド戦略の武器になり、それをヨシムラがスズキに提供しているのだ。

ヨシムラの集合管やマフラーを装着したいからスズキのバイクを買う人もいるくらいだ。

まとめに代えて~私のヨシムラ・コレクション

最後に私のヨシムラ愛を披露したい。

これは私がかつて所有していたスズキ・ジムニーだが、このうしろはこうなっている。

ヨシムラはジムニー用のマフラーを出している。私はヨシムラを入れたくてジムニーを選んだ。

ここからは現在保有している初代隼の写真となる。

隼は中古で買ったのだが、この個体を選んだのはヨシムラ管がついていたからである。

「駐輪場」とあるが、この施設の管理人からバイクをここに停めて欲しいといわれたのでここに置いている。

以下、本稿のために隼のヨシムラ管をたくさん撮ったので紹介したい。

これはサイレンサーを固定する器具のアップだが、こんなところにも「ヨシムラ」と刻印されている。このクオリティの高さは、さすがの一言である。

遠目からでもヨシムラ入りの隼は別格である。

参考

「RACERS Vol.72」(三栄)

https://www.yoshimura-jp.com/company/pop

https://www.yoshimura-jp.com/company/history

https://www.yoshimura-jp.com/company/outline

https://www.asahi.com/articles/ASQ4W5FY7Q46TIPE00W.html

https://www.nhk.or.jp/fukuoka/lreport/article/000/24

https://www.honda.co.jp/WGP/spcontents2002/win500/stories/03/stories03.html

https://www.honda.co.jp/WGP/spcontents2015/700win/history/p01

https://global.honda/jp/guide/corporate-profile

https://www.honda.co.jp/HRC/company/history/greeting

https://global.honda/jp/news/1969/2690728.html

https://www.honda-ml.co.jp/newsrelease/suzuka/2012/03/0303suzukacircuit50th.pdf

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/15868cc6b8f089c77a3af7b0996eb0255630ff9c

https://www.honda.co.jp/Racing/race2015/8hours/history

https://www.suzukacircuit.jp/8tai

https://www.suzukacircuit.jp/motorsports_s/library/8tai

https://www.suzukacircuit.jp/motorsports_s/library/img/history/1978-grid.gif

https://www.suzukacircuit.jp/motorsports_s/library/img/history/1978-final.gif

https://www.bikebros.co.jp/vb/sports/sfeat/s-yoshimurahistory_04/

https://bike-lineage.org/suzuki/gsx-s750/gs750.html

https://www.bipa.jp/event/memorial-exhibition/

https://www.bikebros.co.jp/vb/feat/katana-story-01/

https://www.autoby.jp/_ct/17489890#google_vignette

https://bike-lineage.org/gsx-s1000_s1000f

https://www.suzuki.co.jp/suzuki_digital_library/2_moto/ss4_031.html

https://www.suzuki.co.jp/ir/highlight

https://www.suzuki.co.jp/release/b/2020/1104

https://www.suzuki.co.jp/corporate/csr_environment/intro/philosophy.html

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この記事を書いた人

●著者紹介:アサオカミツヒサ。バイクを駆って取材をするフリーライター、つまりライダーライター。office Howardsend代表。1970年、神奈川で生まれて今はツーリング天国の北海道にいる。
●イラストレーター紹介:POROporoporoさん。アサオカの親友。

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