排気量マウントという言葉が生まれたのはそれほど昔ではないはずだ。私が初めて耳にしたのは確か5、6年前。もう少し前に存在していたかもしれないが、少なくとも私がバイクに乗り始めたころの40年前にはなかった。
この言葉にはインパクトがある。この言葉を初めて聞いたとき、意味を聞いたわけではないのに瞬時に意味がわかったくらいだ。大きな排気量のバイクに乗っているライダーが、小排気量バイクのライダーに偉そうにしている光景が目に浮かんだ。
排気量マウントは、うざいことから悪い行為のように扱われているが、私は間違った行為だと考えている。ではなぜ大排気量バイク乗りのなかに、間違ったことをしてしまう人がいるのか。
なお排気量マウントとナンシーおじさんについてはISOSHU編集長も書いているので参照されたい。
排気量マウントのメカニズム
まずは排気量マウントがなぜ起きるのか、そのメカニズムを解明していく。
こんなシーンを想定してみた。
■排気量マウントが発生する瞬間(想定) |
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ハーレーダビッドソン・スポーツスターSが道の駅の駐車場に入ってくる。そこにはすでにホンダ・レブル250が駐車してあって、その横にオーナーが立っている。レブル乗りはハーレーをみて「お、スポーツスターSだ。やっぱりいいなあ」と思う。 ハーレー乗りはバイクを停めてヘルメットを脱ぎ、レブル乗りの視線を感じた。2人は目が合い、ハーレー乗りが会釈をすると、レブル乗りは嬉しくなってハーレーに近づき「こんにちは」と言う。 ハーレー乗りも「こんにちは」と返す。 レブル乗りは「格好いいですね」と言う。 すると、気持ちが良くなったハーレー乗りは「それ君のバイク? なんシーシーなの?」と尋ねた。 レブル乗りは小声で「にひゃくごじゅうです」と答えた |
デカい者が小さい者に、小ささを尋ねる意味はない
スポーツスターSの排気量は1,252ccで、121馬力。レブル250は249cc、26馬力。スポーツスターSは、排気量も馬力もレブル250の5倍にもなる。
しかし、どれだけ差が広がろうと、ハーレー乗りがレブル乗りに、レブルの排気量を尋ねる理由にはならない。例えばジャイアント馬場は、ファンにサインを求められたときに「君の身長、いくつ?」とは尋ねなかっただろう。
つまり排気量マウントは、自然発生的に生じるのではなく、大排気量バイク乗りに何かしらの意図があるときに生じるのだ。
支配下に置きたい。または「大きいのに乗らなきゃ」と言っている
では大排気量バイク乗りの意図とは何か。推測になるが、2つあるだろう。
意図その1は、小排気量バイク乗りを、自分の支配下に置きたい欲求である。ジャイアンのような悪意のある有力者は、のび太のような弱い者を支配下に置こうとする。したがってジャイアンのような性格の持ち主が大排気量バイクに乗ると、小排気量バイクをみつけた途端「自分のほうが勝っている」と考えてしまう。
小排気量バイク乗りに排気量を尋ねるのは、自分のバイクの排気量との差が、そのまま力の差になると考えるからだろう。
この手の人間はどこにでもいて、例えば、会社での役職や年収が、社会的地位に反映されると考えるのだ。
意図その2は、大排気量バイクこそ本物のバイクである、という思考だ。小排気量バイクは踏み台にすぎず、本物のバイク乗りを目指すなら大型バイクに乗らなければならない、という考え方は存在する。
このタイプの大排気量バイク乗りは、小排気量バイク乗りに「もっと大きなバイクの乗らなくちゃ」とアドバイスするのである。
モチベーションは上にいたい欲求
以上のことから、排気量マウンターたちのモチベーションは「自分のほうが上にいたい」という欲求であることがわかる。そして自分のほうが上という意識は、多くの人に嫌われる。
例えば年収1,000万円の人が、年収300万円の人に「年収いくら? 300万円? それでよく生活できるね」と言ったら嫌われる。
「250㏄のスピードでよく満足できるね」と言う排気量マウンターは、だから多くのバイク乗りから嫌われるのである。
逆排気量マウントが起こらない謎
以上が排気量マウントの発生メカニズムであるが、もう一つ確認しておきたいことがある。それは逆排気量マウントが発生しないことだ。
小排気量バイク乗りが、大排気量バイク乗りに「そのバイクはなんシーシーですか」と尋ねることはあるが、それは純粋に興味から尋ねている。ジャイアント馬場より小さいファンがジャイアント馬場に身長を尋ねるのは、ジャイアント馬場に興味があるからだ。
小排気量バイク乗りはなぜ、大排気量バイク乗りにマウントを取らないのか。
もし「大排気量バイクのほうが強く、小排気量バイクのほうが弱いからだ」と思った人がいたら、それはすでに排気量マウンターに飲まれている。
なぜなら、大排気量バイクのほうが強く、小排気量バイクのほうが弱いという事実はないからだ。事実として存在するのは、大排気量バイクのほうが排気量が大きく、馬力が大きく、速く、高額なだけである。
そしてもう一つの事実は、小排気量バイクのほうが、燃費、小回り、操作性に優れるということだ。
だから大排気量バイク乗りがマウントを取ってきたら、小排気量バイク乗りは「身の丈に合わないバイクに乗って楽しいのかね」と、マウントを取り返してもよいのだ。
人には自分のスケールがある~大と小には強弱も良い・悪いもない
大と小には、どちらが強く、どちらが弱いという概念は含まれない。大が良く、小が悪いということはなく、その逆もない。
したがって排気量マウンターが「大排気量バイクこそ良いことであり、正であり、強者である」と考えるのは、間違っているのだ。
なぜ間違っているといえるのか。それは、人には「自分のスケール」があるからである。
大きいものが好き、大きいもののほうが自分に合っている、という人がいる一方で、小さいもののほうが好きだし自分にフィットする、と感じている人いるのだ。
民家をつくった安藤忠雄と都庁をつくった丹下健三
「自分のスケール」について、建築家を例にとって解説してみる。
安藤忠雄も丹下健三も日本を代表する世界的建築家であり、「安藤のほうが偉い」「丹下のほうがすごい」という人はいない。どちらも偉くてすごいので、比べようがないからだ。
しかし両者は、つくっているものがかなり違う。
安藤の代表作である「住吉の長屋」は高さ6mの民家であり、丹下の代表作は高さ243mの都庁である。もし大きい建築物をつくっている建築家のほうが偉くてすごければ、丹下は安藤の41倍偉くてすごいことになるが、そうはなっていない。
建築物の価値は大きさでは決まらない。安藤は小さな建築物を得意として、丹下は巨大建築物を得意とする。それだけである。
憧れと自分のスケールのギャップ
排気量マウントが間違っているのは、相手のスケールを知りもしないで大排気量バイクをすすめているからだ。自分のスケールが250㏄の人に、1,000㏄のバイクを推奨する行為はハラスメントだ。さしずめハイハラか。
ただここで一つ問題が発生する。大排気量バイクへの憧れだ。バイクメーカーは驚くほど、大排気量バイクのクオリティを上げている。小排気量バイクには格好良いデザインを与えないバイクメーカーすらある。だから自分のスケールが250㏄なのに、1,000㏄のバイクに憧れることは珍しくない。
実はこの状態のときこそ、大排気量バイクを推奨することが有効になる。例えばこのようなケースが想定される。
■自分のスケールが250㏄の人に1,000㏄のバイクを推奨してよい例(想定) |
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Aさんは自分の250㏄のバイクに満足している。身長は高くないし体重は軽いので、車重も馬力も自分に合っている、と感じている。 しかしAさんは大型バイクに憧れている。それでAさんは、ツーリング仲間であり1,000㏄のバイクに乗っているBさんに「私が大型バイクに乗るのって、どう思いますか」と相談した。 Bさんは「Aさんのバイクって、なんシーシーだったっけ」と尋ねた。 Aさんは「250㏄です」と答えた。 Bさんは「馬力は?」と重ねて質問をする。 Aさんは「40馬力」と答えた。 Bさんは次のように言った。 「Aさんの体格なら、40馬力の250㏄でちょうどいいと思うけどな。大型バイクに乗るには大型免許が必要で、お金も時間もかかるし、大型バイクを買うのにもお金が要る。中型から大型に乗り換えたけど、扱いきれなくなって中型に戻る人もいるよ」 そこでAさんは意を決して「大型バイク、憧れなんですよね」と告白した。 それでBさんは最終的に、こうアドバイスした。 「憧れで大型バイクに乗るのは全然ありだよ。憧れがあれば、大型バイクの重さにも速さにも、なんならローンにも耐えることができるよ」 |
バイクは精神的なものだ。したがって、自分のスケールを度外視して、大排気量バイクに憧れることは起こりうるし、それこそバイクの醍醐味である、とすらいえる。
悪戦苦闘しながら大排気量バイクを乗りこなすことは、バイクの楽しみ方の一つだ。
まとめに代えて~メーカーも悪いと思う
大排気量バイクのほうが偉い、という考え方は、もしかしたら「小さなバイクから大きなバイクへとステップアップする」という考え方が起源になっているのかもしれない。「アップ」なのだから大排気量バイクのほうが上、だから偉い、と連想できてしまう。
また、大排気量バイクのほうが操縦が難しいから、「難しいことができている私って偉いでしょ」という意識が生まれやすいのかもしれない。
また、土日をつぶして教習所に通って大型免許を取り、大金はたいて高級大型バイクを買い、立ちごけしそうになりながら駐輪場からバイクを出して、ようやく道路を走り始めた人が「偉ぶらせてくれ」と切望したくなる気持ちも理解できないわけではない。
それでも排気量マウントは間違った行為であり、人を不快にさせ、しかも滑稽なのでしないほうがよいだろう。
もう一つ別の観点から排気量マウントを眺めてみたい。
バイクメーカーにも責任があるのではないか。
昔の中型バイクには「大型バイクなんて要らない」と本気で思わせるものが多数存在した。大排気量バイク乗りが「なんシーシー?」なんて尋ねてきたら、峠で中型バイクでブチ抜いて「お前のバイク、泣いてるぜ」と言ってやることができた。
1980年代と90年代の中型バイクは、大型バイクの噛ませ犬などではなかった。
ところが今、新車で買える中型バイクをみると魅力的なものが少ない。「ステップアップ用か」と感じる中型バイクも多い。例えばレブル1100はレブル250より格好良く、YZF-R1はYZF-R25より格好良い。バイクメーカーが排気量カーストをつくってしまったことも、排気量マウントの発生原因になっているのかもしれない。
(上も下も、ヤマハ公式サイトに掲載されている写真。みせ方があまりに違う。R1を格好良く映している、というより、R25をわざと格好悪くみせている、と感じるのは私だけだろうか。ヤマハが「こんなちっちゃいバイクにいつまでも乗ってないで、こっちに乗りなよ」と言っているように聞こえたのは幻聴なのだろうか)