MVアグスタは罪を犯して美しいバイクをつくる【デザインを考える】

現代のMVアグスタは、美しいバイクをつくるメーカーとして知られている。その美しさはときに極まりすぎて、常人には「美しい」とすら思えないほどの高みに到達する。まるで、パリコレのランウェイを歩く9頭身のモデルが、あまりに美しすぎて遠い存在にみえるように。

MVアグスタの美しさが、ほかのバイクメーカーのバイクのデザインをはるかに超越しているのは、思想がとてつもなく強いからだ。美は罪であると考え、その罪をあえて犯そうというのだから。

目次

まずはドラッグスターの解説から

冒頭のイラストは、ドラッグスターのテール周りとマフラーエンドを拡大したものである。その全体像はこちら。

(上がドラッグスター、下はZ900。いずれも公式サイトから)

私は、ドラッグスターのデザインは、とてつもなくすごいと感じているし、そのすごさは同じストリートファイターのカワサキZ900と比べるとわかる。

どちらも、ライト低め、中心でっぷり、うしろスッキリ、パイプフレームをみせる、といった点が共通しているが、グッチのドレスとユニクロのシャツくらいデザインの凝り具合が違う。もちろん値段も段違いなのだが。

しかし私は、ドラッグスターですらまだ、MVアグスタのデザインを代表するものではないと思っている。これよりすごいデザインのバイクがMVアグスタのラインナップのなかにある。それはあとで紹介する。

ここであえてドラッグスターを紹介するのは、このレベルですら語るべきデザインの要素を多数持っていることを示したかったからである。

MVアグスタ・デザイン論の序章として、ドラッグスターのテール周りとマフラーエンドをみていきたい。

抉(えぐ)りの深さが異常

まずテール周りだが、テールランプが鳥のくちばしが開いているような形をしている。デザイナーに「奇抜な形にしてくれ」といえば、このような画を描くことはできるだろう。しかしその画を実物にして、いわんや量産バイクにのせることは、普通のバイクメーカーはしない。

もちろんまれに、普通のバイクメーカーも「よし今回は攻めたデザインにするぞ。鳥のくちばしを開いた形を採用する」と決めることはあるが、しかし耐久性や製造コストを考えて抉(えぐ)る深さをもっと浅くしてしまう。

ドラッグスターの抉りの深さは異常で、デザイナーの「ここまでやらなきゃ意味ないでしょ」という声が聴こえてくる。

普通はそこにETCやバッテリーを入れる

テール周りではシート下の穴も見事である。ただこれもアイデアだけなら驚くほどのものではなく、他社の過去のコンセプトモデルにも探せばこのような形状がありそうだ。しかし普通のバイクメーカーは、市販化するときに穴をふさいでしまう。

こんな話を聞いたことがある。

国内4大バイクメーカーのある1社の日本人デザイナーが、ヨーロッパに駐在していたころ、イタリア人のバイクづくりのプロセスにとまどったという。イタリア人は、デザイナーが形を決めてから、フレームやエンジンをつくる機能班に「こういうふうにつくって」と依頼する。ところが日本では、機能班がある程度形にしてから、デザイナーに「もう少し格好良くしておいてね」と依頼するというのだ。

イタリア人はデザイン・ファーストで、日本人は機能ファーストというわけだ。

だから日本メーカーなら、せっかくデザイナーがシート下に穴を開けても、機能班がそこにETCの機器やバッテリーを入れてしまうだろう。

妥協しない、とはこういうこと

以下のバイクは2003年に発売されたカワサキZ1000である。これもストリートファイターに属するバイクだ。マフラーエンド(サイレンサー部分)の形状に注目していただきたい。

(Z1000。インターネットから)

私はこのマフラーエンドを初めてみたとき、なんて大胆なんだ、と思った。4気筒エンジンから出る4本のエキゾーストパイプを2本にして、そのあとわざわざ4本(片側2本ずつ)にしている。重量増になるデメリットを被ってでもデザインを優先したのだ。

しかしドラッグスターのマフラーエンドをみてしまうと、Z1000のそれすら単調すぎてつまらなく感じる。

(ドラッグスターのマフラーエンドのアップ。公式サイトから。以下同)

もちろん両車の誕生には20年の開きがあるので、Z1000は割り引いてみてあげないといけないのだが、それでもだ。

ドラッグスターのマフラーのデザイナーは「3気筒エンジンだからパイプを3本並べる」というアイデアだけでは気持ちが収まらず、斜めに切ってみた。そして、それでも物足りないから別の角度からも斜め切りした。それでも正解に届いていないと感じて、パイプの太さも変えてしまった。

妥協しない、とはこういうことなのだろう。

MVアグスタの歴史を少ししか紹介しない理由

MVアグスタを語る多くの人は、その歴史に触れる。しかし本稿では、少ししか触れないでおく。

初代MVアグスタは事実上消滅しているから

冒頭でこのイタリア・メーカーのことを「現代MVアグスタ」と表現したが、これは1907年に誕生した「初代MVアグスタ」と区別するためである。

初代MVアグスタは、アグスタ伯爵が始めた航空会社から始まる。第2次世界大戦後、イタリアで飛行機需要が激減したため、同社はバイクをつくり始めた。その後バイク・レースで数々の伝説を残したのは周知のとおりである。

ところがMVアグスタは1970年代に経営難に陥り、その迷走劇は1980年代が終わっても終息しなかった。

この間、MVアグスタは事実上消滅していた、といえるだろう。

MVアグスタの名を復活させたのは、イタリアのカジバ社で、1992年にMVアグスタの商標を取得した。そしてカジバ社は1999年、「MVアグスタの名がつくバイク」としてF4をリリースしたのである。

(F4)

しかしそのカジバ社も経営難に。

次にMVアグスタの名を取得したのは、ティムール・サルダロフというロシアの起業家が率いるファンド、コムサール・インベスト社だ。同社は2017年からMVアグスタ株を買い始め、2019年に100%取得した。サルダロフは今、MVアグスタのCEOに就任している。

このように初代MVアグスタと現代MVアグスタは赤の他人どうしである。

参考

https://www.mvagusta.com/jp/ja/history

「意味があるのはブランド名だけ」だから意味がある

栄光の初代MVアグスタと、ビジネス上の成功を収めた現代MVアグスタに血縁関係がないのであれば、その歴史に意味などない。私もそう思っていた。

初代MVアグスタと現代MVアグスタの関係は、例えばハコスカ・スカイラインGTRとスーパーカーになった35GTRの関係や、ローバーがつくっていたミニとBMWがつくっているミニの関係と似ている。つまり現代MVアグスタも、偉大なる過去の名前で商売をしているのである。

しかし私は考えをあらためた。今は、ブランド名だけが受け継がれたことにこそ意味がある、と思う。

「美は原罪ではない」を解釈する

私は、MVアグスタのデザインを代表するバイクは、スーパーベローチェ1000SERIO OROだと思っている。以下の写真は、このバイクのプロモーション・ビデオ「BEAUTY IS NOT A SIN」を紹介した、ホームページの冒頭部分である。

(「BEAUTY IS NOT A SIN」を紹介する公式サイトの最初のページ)

スーパーベローチェには、スーパーベローチェ800という3気筒、798㏄、147psの標準タイプがあるが、スーパーベローチェ1000SERIO OROは4気筒、998㏄、208psのスペシャル版だ。SERIO OROは黄金シリーズという意味である。

プロモーション・ビデオのタイトルにあるSINの意味は、キリスト教の原罪。つまりこのタイトルは「美は原罪ではない」と翻訳できるのだが、私はこう訳してみた。

■「BEAUTY IS NOT A SIN」の拙訳

●「本当は美は原罪だが、ここでは原罪ではないとしておく」

私はバイクのデザインについて考察したいのだが、MVアグスタを語るには、キリスト教とか原罪とかを考慮しないといけないのである。

参照:

https://www.mvagusta.com/jp/ja/beauty-is-not-a-sin

原罪と知りつつ惹かれてしまうほど美しいものをつくった、という自負か

キリスト教の原罪とはこういう罪である。

男の原型であるアダムと女の原型であるイブが、神が「食べてはいけない」と言っていた禁断の木の実を食べてしまった。その結果、本来は神しか持つことができない善悪を区別する能力を2人が得てしまう。神はこれを罪として、2人を神の国から追い出した。これにより人間世界ができ、現在の人類はすべてアダムとイブの子供である。そして2人が負った罪を人類も背負っている。

この罪のことを原罪と呼び、そのなかに欲望を満たす行為も含まれている。欲望があると、神を想う気持ちが薄れてしまうから、人間は欲望を捨てなければならない。

美を追求することも欲望を満たす行為の1つとされるため、したがって「美は原罪」という考え方が成立する。

MVアグスタは、こうした背景を踏まえたうえで「美は原罪ではない」と言い放った。もちろんMVアグスタがキリスト教を否定しているわけではない。だからBEAUTY IS NOT A SINは「本当は美は原罪だが、ここでは原罪ではないとしておく」という意味になるのである。

「ここでは」とはもちろん「1000SERIO OROの美においては」である。

MVアグスタは「私たちの本能は1000SERIO OROのように美的に崇高なものに対して惹かれてしまう」と述べている。さらに1000SERIO OROのデザインによって人々は「誘惑や欲望について考えさせられる」だろう、とも言っている。

1000SERIO OROのデザイン・コンセプトはさしずめ、原罪と知りつつ惹かれてしまうほど美しいものをつくる、だろうか。

参照:

https://kotobank.jp/word/%E5%8E%9F%E7%BD%AA-60495#goog_rewarded

https://www.mvagusta.com/jp/ja/beauty-is-not-a-sin

これが罪の味がする美だ

ここまでの解説で「ずいぶん大袈裟だな」と感じた人もいるだろう。しかし私としては、これでも抑制的に解説しているつもりである。

そのことは1000SERIO OROと、標準バージョンのスーパーベローチェ800を比べるとすぐに理解できるだろう。

赤白が1000SERIO OROで、黒がスーパーベローチェ800である。

(上が1000SERIO OROで、下がスーパーベローチェ800)

超優秀なデザイナーがスーパーベローチェ800を描いて、周囲から絶賛されているところに、デザイン部門を統括するチーフ・デザイナーがやってきて「ふん」と鼻で笑いながら1000SERIO OROを描いて全員を黙らせた。――そんなシーンを想像してしまうくらいスーパーベローチェ800は優れているし、1000SERIO OROは神がかっている。

サランラップの芯を横に置いてみた

罪深きデザインをまとった1000SERIO OROは、スーパーベローチェ800をベースにしているので、まずはこちらの外観を確認する。

(スーパーベローチェ800の正面)

スーパーベローチェ800に奇妙さと新しさを感じるのはカウルだ。ヘッドライトは円形の単眼で愛嬌すら感じられる。MVアグスタはカウルのデザイン・コンセプトを「ネオクラシック」や「伝統を現代的に解釈した」と説明している。3連のマフラーエンドは、ここにも使われている。

このファニー・フェイスに見慣れてもなお全体像に違和感を覚えるのは、奇妙なこだわりがあるからだろう。カウルの上部(ハンドルの下)に水平ラインが引かれ、それがサイドカバーを兼ねるシートカウルまで続いている。このこだわりによって、バイクが上と下にくっきりわけられてしまった。

しかも水平ラインはかなり上のほうにあるので、まるで寿司のようだ。下部の大半を占めるシャリの上に、薄いマグロの刺身がのっている、そんな感じである。

そしてテールライトも円形なので、これがヘッドライトの円形と呼応して、まるでサランラップの芯(つまり細長い円柱)を横に置いたような状態になっている。

このデザインの方針がどれだけ異質であるかは、公式とおりのデザインをしているCBR1000RRRと比較すると明快だ。CBR1000RRRに次の3本の線を引いてみた。

1)タンク上部とシート上部を結ぶ線

2)カラーリングの青い部分の上部の線

3)シート下部とサブフレームを結ぶ線

見事に一点透視図法になる。この形状は見慣れているので瞬時に「格好良い」と思えるのだが、その反面、飽きるのも早く「でもまあよくあるSSの形だね」と感じてしまう(格好良いのだが)。

MVアグスタのデコレーションはわけが違う

1000SERIO OROは、スーパーベローチェ800のデコレーション版といえるのだが、そこまでやるかというくらい変えている。

1000SERIO OROのデザイナーはなんと、スーパーベローチェ800のあの素晴らしい3連マフラーエンドを取り外して、センターアップ・マフラーを取りつけてしまった。スーパーベローチェ800は3気筒だが1000SERIO OROは4気筒なので4本のパイプが尻から出ている。

さらにフロントカウルもシートカウルもタンクカバーも形状を変えて、それでも足りずホイールまで変えてしまった。その複雑な造形と、手数の多さと、つくり込みの良さは、十分高級車のスーパーベローチェ800がチープにみえるほどだ。

同じ車体に排気量が違うエンジンを載せて2台つくるバイクメーカーはほかにもある。こうすることでコストダウンしながらラインナップを増やせる。

ところがMVアグスタはコストダウン効果を捨ててでも、もっとすごい2台目(1000SERIO OROのこと)をつくってしまう。

私はもう一度同じことをいいたい。妥協しない、とはこういうことである、と。

まとめに代えて~「美とビジネス」と「高慢さと卑屈さ」

先ほど、現代MVアグスタは、「MVアグスタ」というブランド名だけを受け継いだことに意味がある、と述べた。その真意を説明して本稿を閉じたい。

私は、MVアグスタのデザイン班も機能班も、美しいバイクをつくらなければ自分たちが存在する意味がない、と思っているのではないかと想像する。もちろんドカティやヤマハも美しいバイクをつくことで知られるメーカーだが、MVアグスタの美へのこだわりは格が違い、製造業企業であることを忘れさせるほど強い。

現代MVアグスタが、原罪を引き合いに出してまでバイクのコンセプトをつくるのは、「MVアグスタの名を汚せない」という想いがあるからではないか。「MVアグスタという名前を冠する以上、美しくないバイクなんてつくれないだろ」と。

魅力のあるブランド名は、人々にとてつもなく大きなモチベーションを与える。

しかし美をビジネスにすることはとても難しい。油絵もクラシック音楽も純文学もビジネスに苦戦しているし大衆をとらえることができていない。だからMVアグスタがやろうとしている、バイク業界で美で勝負するビジネスは、挑戦といった生易しいものではなく無謀だ。

美で勝負しながら、もう二度と消滅しないためにはカネを稼がなければならない。

このバイクは、MVアグスタのオフロードモデル、LXPである。

(MVアグスタLXP)

残念ながら美しくない。ラッキーストライクをイメージさせるカラーリングは姑息にすら感じる。カジバがパリダカでラッキーストライク・カラーをまとって優勝したことがあるので、MVアグスタのオフロード・バイクにラッキーストライクが描かれていてもおかしくない、という理屈なのだろうが。

しかもLXPは、ドカティのデザートXやホンダ・アフリカツインと酷似していて、美しくないだけでなく面白くないし新味すらない。

(上がドカティ・デザートX、下がホンダ・アフリカツイン)

それでもMVアグスタの戦略としては、いや、生き残り策としてはこれでよいのだろう。MVアグスタ・ブランドで買ってくれる人に売って利益をあげて、それをデザイン最優先バイクに投資するのである。

美をビジネスにするには、優れた芸術品をつくらなければならないが、それが芸術すぎると破綻してしまう。だから高慢さと卑屈さの両方を抱えてバイクをつくっていかなければならない。

ベンツも小型車をつくっているし、フェラーリとポルシェも4枚ドアの車をつくっているのだからこれでいいのだ。

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この記事を書いた人

●著者紹介:アサオカミツヒサ。バイクを駆って取材をするフリーライター、つまりライダーライター。office Howardsend代表。1970年、神奈川で生まれて今はツーリング天国の北海道にいる。
●イラストレーター紹介:POROporoporoさん。アサオカの親友。

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